◆紀伊半島にもあった「鯖街道」
上方で食べられていたすしの一つに「鯖ずし」があります。特に有名なのは、京のそれ。若狭(福井)の塩を施された鯖が京まで運ばれた「鯖街道」があったからであるのは、よく知られています。
ですが実は、紀伊半島にもう一つの「鯖街道」があったのをご存じでしょうか。紀伊半島沖の熊野灘で獲られた鯖を行商人が北に向かって売り歩いたのです。
その起源は定かでありませんが、一説には「江戸中期に紀州の殿様が熊野の漁師に重い年貢を課したことから、漁師はそのお金をひねり出すために、夏サバを塩で締め、吉野川筋の村に売りに出掛けた」(『大和の食文化』、奈良新聞社、2005年)とも言われています。
そのルートはいくつか考えられますが、一つに東熊野街道があります。現在の国道169号線とほぼ重なり、紀伊半島南端の熊野地方から、奈良県の下北山村、上北山村を通り、伯母峯(おばみね)峠を越えて吉野町、と北へ運ばれます。
そのためか、紀伊半島の山間部にも鯖ずしを古くから食べていた土地があり、その一つに柿の葉すしも数えられます。
◆全国に名を轟かせた「今井の鯖ずし」
この「鯖街道」があったからでしょうか。大和(奈良)にも「鯖ずし」が有名な土地がありました。
現在の奈良県橿原市今井町。堺と並ぶ商工業都市として栄えた街です。1712年に出版された日本の百科事典『和漢三才図絵』によると、元禄(1688~1704年)の頃の名物として「今井の鯖ずし」の記述が残されています。
なぜ今井で鯖ずしが名物だったのか。残念ながら、残された文献が少なく、確かなことはわかりません。交流があった堺から鯖が運ばれてきたという説もありますが、この「鯖街道」を伝い、熊野灘の鯖が運ばれていたとしても不思議ではありません。
では、その頃の鯖ずしはどんなものだったのでしょう。1802年の書物「鮓飯秘伝抄」に、当時の作り方が記されています。
それによると、「塩鯖は塩出しし、骨や薄皮をとり、酢飯を抱かせ、飯と鯖を交互につめて押し、飯の酸味が鯖にうつったら取り出して、切り分けて飯とともに食べる。朝に漬けて、夕方には食べる」とあります。
酢飯を使っていることからも、今の作り方に近かったようです。